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1. (WO2018190013) イオン分析装置及びイオン解離方法
Document

明 細 書

発明の名称 イオン分析装置及びイオン解離方法

技術分野

0001  

背景技術

0002   0003   0004   0005   0006   0007   0008   0009   0010   0011   0012   0013  

先行技術文献

特許文献

0014  

非特許文献

0015  

発明の概要

発明が解決しようとする課題

0016   0017  

課題を解決するための手段

0018   0019   0020   0021   0022   0023   0024   0025   0026   0027   0028   0029   0030   0031   0032   0033   0034   0035   0036   0037   0038   0039   0040   0041   0042   0043   0044   0045   0046   0047   0048   0049   0050   0051  

発明の効果

0052   0053   0054  

図面の簡単な説明

0055  

発明を実施するための形態

0056   0057   0058   0059   0060   0061   0062   0063   0064   0065   0066   0067   0068   0069   0070   0071   0072   0073   0074   0075   0076   0077   0078   0079   0080   0081   0082   0083   0084   0085   0086   0087   0088   0089   0090   0091   0092   0093   0094   0095   0096   0097   0098  

符号の説明

0099  

請求の範囲

1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11   12   13   14   15   16  

図面

1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11   12   13   14  

明 細 書

発明の名称 : イオン分析装置及びイオン解離方法

技術分野

[0001]
 本発明は、試料成分由来のイオンをイオントラップ内に捕捉し、その捕捉したイオンを1又は複数段階に解離させ、その解離により生成されたイオンを分析するイオン分析装置及びそのためのイオン解離方法に関する。ここでいうイオン分析装置は、イオントラップ自体を利用して又は外部の質量分離器を利用してイオンを質量電荷比に応じて分離して検出する質量分析装置、或いは、外部のイオン移動度計を利用してイオンを移動度に応じて分離して検出するイオン移動度分析装置、を含むものとする。

背景技術

[0002]
 高分子化合物を同定したりその構造を解析したりするために、近年、目的とする化合物由来のイオンをイオントラップの内部に捕捉したあと1又は複数段階に解離させ、それにより生成されたプロダクトイオン(フラグメントイオン)を質量電荷比に応じて分離して検出する質量分析法が広く利用されている。このような質量分析のための装置としては、イオントラップ自体で質量分析を行うイオントラップ型質量分析装置、イオントラップからプロダクトイオンを排出して外部の飛行時間型質量分析計で質量分析を行うイオントラップ飛行時間型質量分析装置などがよく知られている。
[0003]
 こうした質量分析装置において分子量の大きなイオンを解離する手法としては、電場の作用により共鳴励振させたイオンをアルゴンなどのガスに衝突させて解離を誘起する衝突誘起解離(CID=Collision Induced Dissociation)法が最も一般的であるが、それ以外にも、赤外多光子吸収解離(IRMPD=Infrared Multi-Photon Dissociation)法、紫外光解離(UVPD=UltraViolet Photo Dissociation)法、電子移動解離(ETD=Electron Transfer Dissociation)法、電子捕獲解離(ECD=Electron Capture Dissociation)法などの様々な解離法が知られている。
[0004]
 タンパク質やペプチドなどの、生体試料由来である高分子化合物のイオンを解離させる際には、ETD法やECD法が広く用いられている。
 ETD法では、負の分子イオンを反応イオンとしてイオントラップ内に照射し、それをイオントラップ内で試料成分由来のイオンと衝突させ相互作用を生じさせる。この相互作用によって反応イオンの電子が試料成分由来のイオンのプロトンに移動し、該プロトンは水素ラジカルに変化する。この反応により生成されるイオンのラジカル種が結合特異的に解離する。一方、ECD法では、1eV程度の低エネルギーの電子をイオントラップ内に照射し、イオントラップ内で試料成分由来のイオンのプロトンに電子を付加させる。それにより、該プロトンは水素ラジカルに変化し、この反応により生成されるイオンのラジカル種が結合特異的に解離する。
[0005]
 ETD法やECD法はCID法などの衝突性解離法とは異なり、不対電子誘導型の解離法であるため、ペプチド主鎖のN-Cα結合の開裂が特異的に起こる。そのため、CID法では生成されにくい、c/z系列のフラグメントイオンが盛んに生成される。また、糖鎖などの修飾部位が保持されたまま解離が生じるため、修飾物の同定や修飾部位の特定が行い易い。こうしたことから、ETD法やECD法は生体高分子化合物の網羅的な構造解析に有用である。
[0006]
 また、本発明者らは新規のイオン解離法として水素付着解離法(Hydrogen-Attachment Dissociation、以下HAD法と略す)を開発し、特許文献1、非特許文献1等において提案している。簡単にいうとHAD法は、水素ラジカル(=水素原子)をイオンに付着させて該イオンを解離させる方法であり、その解離メカニズム自体はECD法やETD法と類似していると考えられる。即ち、HAD法も一種の不対電子誘導型のイオン解離法であり、ETD法やECD法と同様の有利性がある。
[0007]
 上述したようにETD法やECD法は生体高分子化合物の構造解析に有利な特徴を有するが、理論的に2価以上の多価イオンの解離しか行うことができない。何故なら、試料成分由来である1価のイオンはラジカル反応後にすぐに中性化してしまうためである。また、価数が2以上であっても低価数(概ね6価程度以下)であるイオンに対しては解離効率が低く、構造解析のために十分な情報が得られないことが知られている。
[0008]
 これに対し、HAD法で利用される水素ラジカルは中性であり、解離に伴い分子イオンの価数が減ることはないため、理論的には1価を含む全てのイオンに適用が可能である。しかしながら、実際には、HAD法においてもプリカーサイオンの価数が高いほうが解離効率は高く、プリカーサイオンが低価数であると構造解析のために十分な情報が得られにくい。
[0009]
 図12はユビキチン (Ubiquitin) 由来の1価のイオンをプリカーサイオンとしてHAD法による解離を行うことで得られたMS/MSスペクトル(プロダクトイオンスペクトル)である。図12から分かるように、解離により生成される筈のプロダクトイオンは殆ど検出できていない。一方、図13は、エレクトロスプレーイオン化(ESI)法を用いて試料成分をイオン化することで生成されたユビキチン由来の13価のイオンをプリカーサイオンとしてHAD法による解離を行うことで得られたMS/MSスペクトルである。図13では構造解析に有益である各種のプロダクトイオンが明確に確認できている。この結果から、HAD法では低価数のプリカーサイオンに対する解離効率が低いことが分かる。
[0010]
 上述したように、HAD法、ETD法、及びECD法を用いたMS/MS分析では、プリカーサイオンの価数が低いと解離効率が低いため、プリカーサイオンの価数は高いことが望ましい。しかしながら、一般にイオンの価数は、イオン化法の種類、サンプルの塩基性度や質量値などに依存するため、1~2価程度の低価数のイオンしか生成されないこともよくある。特に、塩基性アミノ酸残基(アルギニン及びリシン)のN末端側のペプチド結合を切断するトリプシンによる消化法等の前処理が行われる場合、サンプルの塩基性度が低いために多価イオンは得られにくい。また、マトリクス支援レーザ脱離イオン化(MALDI)法などによる特定のイオン化法では、通常、1価のイオンしか得られない。こうしたことから、イオンを解離させるために、HAD法、ETD法、又はECD法を利用しようとすると、サンプルの前処理法やイオン化法が大幅に制約を受けることになる。
[0011]
 こうしたイオン解離法による低価数イオンに対する解離効率を改善する手法として、従来、プリカーサイオンにガスを衝突させたり或いは赤外レーザ光を照射したりすることで該イオンの内部エネルギーを高める手法が知られている(非特許文献2参照)。 しかしながら、こうした手法は印加するエネルギーの調整が難しく、プリカーサイオンの内部エネルギーが高くなり過ぎると翻訳後修飾が脱離するなど、構造解析に必要な情報が失われてしまうおそれがある。
[0012]
 図14は1価のペプチドイオンをプリカーサイオンとしてHAD法による解離を行うことで得られたMS/MSスペクトルである。(a)は、HAD反応中に外部からイオントラップ内のイオンに対して最適なレーザ強度より約10%弱い赤外レーザ光を照射した結果である。また、(b)は最適なレーザ強度の赤外レーザ光を照射した結果であり、(c)は最適なレーザ強度より約10%強い赤外レーザ光を照射した結果である。図14(b)に示すように、レーザ強度が最適である場合には、構造解析に有用なプロダクトイオンが明確に観測されているが、レーザ強度が弱い場合((a)参照)には有用なプロダクトイオンの強度はかなり低い。一方、レーザ強度が強い場合((c)参照)には、構造解析に寄与しない別のプロダクトイオン由来のピークが数多く現れてしまう。
[0013]
 このように外部からプリカーサイオンに印加するエネルギーが最適値より僅かに増減しただけで解離効率が顕著に低下する。また、印加するエネルギーの最適値はペプチドのアミノ酸配列やイオントラップ内に導入されるバッファガスの圧力などに依存するため、測定時に印加エネルギーを最適に調整することは難しい。

先行技術文献

特許文献

[0014]
特許文献1 : 国際公開第2015/133259号
特許文献2 : 米国特許出願公開第2008/0035841号明細書
特許文献3 : 米国特許出願公開第2017/0221694号明細書

非特許文献

[0015]
非特許文献1 : 高橋(H. Takahashi)、ほか6名、「ハイドロゲン・アタッチメント/アブストラクション・ディソシエイション(HAD)・オブ・ガス-フェーズ・ペプタイド・イオンズ・フォー・タンデム・マス・スペクトロメトリー(Hydrogen Attachment/Abstraction Dissociation (HAD) of Gas-Phase Peptide Ions for Tandem Mass Spectrometry)」、アナリティカル・ケミストリー(Analytical chemistry)、2016年、Vol.88、No.7、pp.3810-3816
非特許文献2 : ズバレフ(R. A. Zubarev)、ほか7名、「エレクトロン・キャプチャー・ディソシエイション・フォー・ストラクチュラル・キャラクタリゼイション・オブ・マルチプライ・チャージド・プロテイン・ケイションズ(Electron capture dissociation for structural characterization of multiply charged protein cations)」、アナリティカル・ケミストリー(Analytical chemistry)、2000年、Vol.72、No.3、pp.563-573
非特許文献3 : ブドニック(B. A. Budnik)、ほか1名、「MH 2+ イオン・プロダクション・フロム・プロトネイテッド・ポリペプタイズ・バイ・エレクトロン・インパクト:オブザベイション・アンド・デターミネイション・オブ・イオナイゼイション・エナジーズ・アンド・クロス-セクション(MH 2+ ion production from protonated polypeptides by electron impact: observation and determination of ionization energies and a cross-section)」、ケミカル・フィジックス・レターズ(Chemical Physics Letters)、2000年、Vol.316、No.1、pp.19-23
非特許文献4 : ファン(Y. M. Eva Fung)、ほか2名、「エレクトロン・イオナイゼイション・ディソシエイション・オブ・サインリー・アンド・マルチプライ・チャージド・ペプタイズ(Electron ionization dissociation of singly and multiply charged peptides)」、ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・ケミカル・ソサイエティ(Journal of the American Chemical Society)、2009年、Vol.131、No.29、pp.9977-9985
非特許文献5 : ラップ(Donald Rapp)、ほか2名、「クロス・セクションズ・フォア・ディソシエイティブ・イオニゼーション・オブ・モルキュールズ・バイ・エレクトロン・インパクト(Cross Sections for Dissociative Ionization of Molecules by Electron Impact)」、ジャーナル・オブ・ケミカル・フィジックス(Journal of Chemical Physics)、1965年、Vol.42、pp.4081
非特許文献6 : ブルカー(K. Breuker)、ほか4名、「ディテイルド・アンフォールディング・アンド・フォールディング・オブ・ガシアス・ユビキチン・イオンズ・キャラクタライズド・バイ・エレクトロン・キャプチャー・ディソシエイション(Detailed unfolding and folding of gaseous ubiquitin ions characterized by electron capture dissociation)」、ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・ケミカル・ソサイエティ(Journal of the American Chemical Society)、2002年、Vol.124、No.22、pp.6407-6420
非特許文献7 : コンツ(Cs Koncz)、ほか1名、「カリキュレイテッド・クロス・セクションズ・フォー・ザ・シングル・イオナイゼイション・オブ・フラーレンズ・バイ・エレクトロン・インパクト(Calculated cross sections for the single ionization of fullerenes by electron impact)」、ニュークリア・インスツルメンツ・アンド・メソッズ・イン・フィジックス・リサーチ・セクション・B(Nuclear Instruments and Methods in Physics Research Section B)、1997年、Vol.124、No.2、pp.435-437
非特許文献8 : ステファノ(Luciano H. Di Stefano)、ほか2名、「サイズ-ディペンデント・ハイドロゲン・アトム・アタッチメント・トゥ・ガス-フェーズ・ハイドロゲン-ディフィシエント・ポリペプチド・ラジカル・カチオンズ(Size-Dependent Hydrogen Atom Attachment to Gas-Phase Hydrogen-Deficient Polypeptide Radical Cations)」、ジャーナル・オブ・ザ・アメリカン・ケミカル・ソサエティ(Journal of the American Chemical Society)、2018年、Vol.140、No.2、pp.531?533、DOI: 10.1021/jacs.7b10318

発明の概要

発明が解決しようとする課題

[0016]
 本発明は上記課題を解決するためになされたものであり、その主たる目的は、イオンを解離させる際に、目的とする試料成分由来のプリカーサイオンの価数が低い場合であっても高い解離効率を達成することができるイオン分析装置及びイオン解離方法を提供することである。
[0017]
 また、本発明の他の目的は、単にプリカーサイオンの解離効率を高めるのみならず、例えばタンパク質やペプチドといった生体高分子化合物などの構造を推定するのに重要な情報を的確に得ることができるイオン分析装置及びイオン解離方法を提供することである。

課題を解決するための手段

[0018]
 上記課題を解決する方策の一つは、目的とする試料成分由来のプリカーサイオンをイオン分析装置内で捕捉し、その価数を増加させてプリカーサイオンの解離効率を高めることである。イオンの価数を増加させる一つの手法として、イオンに電子を照射して電子イオン化法と類似したメカニズムで価数を増加させる方法が従来知られている。非特許文献3、4には、磁場閉込め型のFT-ICRイオントラップに捕捉されているプリカーサイオンに対し数十eV程度のエネルギーを有する電子を照射することで価数の増加が達成されることが示されている。但し、その価数の増加はせいぜい1、2価程度である上に、価数増加の効率は数%でしかない。本発明者らは、それらの主要な原因が次の二つであると推察した。
[0019]
 (1)電子照射によって価数が増加したイオンは一般にエネルギーが過剰であるが、FT-ICRセル内のガス圧は極めて低い(1×10 -5Pa以下)ためガスとの衝突による内部エネルギーの安定化(クーリング)は殆ど行われない。そのため、電子の照射を受けたプリカーサイオンの多くは高価数まで価数が増加する前に過剰な内部エネルギーによって開裂してしまい、高価数のプリカーサイオンとして存在しにくい。
 (2)磁場閉込めを用いたFT-ICRセルではトラップ内の仮想ポテンシャルが低い。そのため、高いエネルギーを有する電子がプリカーサイオンに衝突すると、そのイオンのエネルギーが仮想ポテンシャルを超えてしまうために該イオンはイオントラップから抜け出てしまうことがある。
[0020]
 本発明者は、電子照射によるプリカーサイオンの価数増加効果が低い上記のような要因が、電場による閉込めを利用した四重極型のイオントラップではそれほど問題にならないことに着目した。即ち、一般的な四重極型イオントラップでは捕捉したイオンをクーリングするためにイオントラップ内にクーリングガスを導入するため、イオントラップ内部のガス圧はFT-ICRセルのようには低くならず、内部エネルギーが増加したイオンは短時間でクーリングされる。また、一般的な四重極型イオントラップの仮想ポテンシャルは磁場閉込め型のFT-ICRセルに比べてかなり高く、電子照射を受けたイオンがトラップから抜け出すことも考えにくい。本発明者はこうした知見に基づいて電場閉込め型のイオントラップに電子照射による価数増加を導入することに想到し、さらに実験的にその効果を確認し、本発明をなすに至った。
[0021]
 即ち、上記課題を解決するためになされた本発明の第1の態様に係るイオン分析装置は、試料成分由来のイオンをイオントラップの内部で解離させ、それにより生成されたプロダクトイオンを分析するイオン分析装置であって、
 a) 試料成分由来のイオンを高周波電場の作用により捕捉する四重極型のイオントラップと、
 b) 前記イオントラップに捕捉されている解離対象であるイオンに、30eV以上のエネルギーを有する電子を照射する電子照射部と、
 c) 前記電子照射部による電子と相互作用を生じたイオンを解離させる解離促進部と、
 を備えることを特徴としている。
[0022]
 また上記課題を解決するためになされた本発明の第1の態様に係るイオン解離方法は、イオントラップの内部に捕捉した試料成分由来のイオンを解離させるイオン解離方法であって、
 四重極型のイオントラップの内部に高周波電場の作用により捕捉されている解離対象のイオンに、30eV以上のエネルギーを有する電子を照射するとともに、その電子の照射と同時に又は該電子の照射の直後に、電子と相互作用を生じたイオンを所定の手法で解離させることを特徴としている。
[0023]
 本発明の第1の態様に係るイオン分析装置及びイオン解離方法では、解離により生成されたイオン、つまりはプロダクトイオンを分析する手法は特に限定されない。即ち、本発明に係るイオン分析装置は、プロダクトイオンを質量分析する質量分析装置、プロダクトイオンのイオン移動度を分析するイオン移動度計などを含む。
[0024]
 また、上記イオントラップは、1個のリング電極と一対(2個)のエンドキャップ電極とから成る3次元四重極型のイオントラップ、又は四本のロッド電極を含む四重極型のリニアイオントラップのいずれでもよい。ただし、イオンを限られた空間内に捕捉しやすく、またイオンを該空間内に捕捉したままに電子を照射することで電子を照射する時間を調整しやすいという点で、3次元四重極型のイオントラップを用いることが好ましい。
[0025]
 本発明に係るイオン分析装置及びイオン解離方法では、高周波電場の作用により四重極型イオントラップ内に捕捉されているプリカーサイオンに対し、電子照射部から30eV以上の適宜のエネルギーを有する電子を照射する。電子の照射によりプリカーサイオンの内部エネルギーが増加するとともにその価数が増加する。非特許文献5には、電子イオン化法では、30eV以上のエネルギーを有する電子を照射することによりイオン化効率が急激に高まることが記載されている。従って、本発明においても30eV以上のエネルギーを有する電子を照射することによりプリカーサイオンの価数の増加、及びそれによるプリカーサイオンの解離効率を高めることができる。
[0026]
 例えばイオン解離法としてHAD法が用いられる場合、解離促進部は、電子と相互作用を生じることで価数が増加した又は内部エネルギーが増加したプリカーサイオンに対し所定流量の水素ラジカルを照射することで、該プリカーサイオンの解離を促進させる。上述したように、プリカーサイオンの価数が増加して多価イオンになると、HAD法等の各種の解離法による解離効率が向上する。また、プリカーサイオンの価数が十分には増加しない場合であっても、電子の照射を受けてプリカーサイオンの内部エネルギーが増加すると、電子照射による内部エネルギーの増加がない場合に比べて解離が生じ易くなる。その結果、試料成分の構造解析に有用なプロダクトイオンが観測され易くなる。
[0027]
 本発明に係るイオン分析装置及びイオン解離方法において、解離促進部により実施されるイオンの解離手法は、典型的には、HAD法、ECD法、ETD法などの不対電子誘導型の解離法である。
[0028]
 イオン解離法としてECD法が用いられる場合、上記解離促進部は、プリカーサイオンに対し電子を照射することで該プリカーサイオンの解離を促進させるが、ECD法による解離のために照射される電子のエネルギーはたかだか1eV程度であり、上記電子照射部から照射される電子のエネルギー(30eV以上)とは全く相違する。もちろん、電子を照射するという点では同じであるから、イオントラップ内部に捕捉されているイオンに対し電子を照射する電子照射部での電子のエネルギーを調整可能としておき、相対的に高いエネルギーの電子をイオントラップ内に導入してプリカーサイオンの価数を増加させたあと、相対的に低いエネルギーの電子をプリカーサイオンに照射してECD法による解離を促進させてもよい。
[0029]
 上述したように、ECD法等の不対電子誘導型の解離法を用いることで、解析対象の試料がタンパク質やペプチドなどの生体高分子化合物である場合に、c/z系列のフラグメントイオンや糖鎖等の修飾物が付加した状態のペプチド断片などの構造解析に有用な情報を得ることができる。
[0030]
 また、不対電子誘導型でない解離法、例えばCID法、IRMPD法、UVPD法などの他の多くの解離法でも、一般的にはプリカーサイオンの価数が高いほうが解離効率が高い。したがって、解離促進部により実施されるイオンの解離手法はこうした解離法でも構わない。特に、前記解離促進部が衝突誘起解離法によりイオンを解離させるものとすれば、IRMPD法やUVPD法のような光学系の構成が不要であるため、装置の構成が簡単になる。
[0031]
 電場閉込め型のイオントラップでは、磁場閉込め型のイオントラップに比べてイオンに対する仮想ポテンシャルは高くイオンの閉込め効果は高いものの、電子に対する閉込め効果は低い。そのため、電子照射部からイオントラップ内に単に電子を導入するだけでは、導入された電子の一部が無駄になり、イオントラップ内の電子密度を十分に高めることが難しい場合がある。イオントラップ内の電子密度が低いとイオンに電子が接触する機会が少なく、イオンの価数増加や内部エネルギー増加の効果が得られにくい傾向にある。
[0032]
 そこで、本発明の第1の態様に係るイオン分析装置及びイオン解離方法では、イオントラップに導入した一次電子を直接イオンに作用させて該イオンの価数増加や内部エネルギーの増加を促すほか、イオントラップを構成する電極の内面に一次電子を照射し、その一次電子に応じて該電極の内面から放出される二次電子をプリカーサイオンに照射するとよい。これによれば、イオントラップ内部の電子密度をプリカーサイオンとの気相反応に十分な程度に高くすることができる。
[0033]
 また、イオントラップに捕捉されているイオンは振動しているが、そのイオントラップの中心付近に存在する確率が高い。したがって、一次電子をイオンとの反応に利用する場合には、該電子をイオントラップの中心部に集束させるように照射するとよい。これにより、イオントラップに導入する電子の量が比較的少ない場合であっても、電子がイオンと接触する機会を増やすことができる。
[0034]
 第1の態様に係るイオン分析装置及びイオン解離方法では、上述したように一次電子を直接イオンに作用させる場合、後述するような理由のため、電子のエネルギーが必要以上に高いことは好ましくない。そこで、電子のエネルギーを概ね30eV以上で、その上限を200eV程度以下、さらに好ましくは100eV以下にするとよい。即ち、電子のエネルギーの範囲を30~100eV程度の範囲に定めておくとよい。一方、二次電子を反応に利用する場合、本発明者らの実験的な検討及び一般に知られている二次電子放射係数に関する知見によれば、十分な価数増加効果を得るために、電子のエネルギーは好ましくは100eV以上、さらに好ましくは125eVとするとよく、その上限は、二次電子放射係数が多くの金属において1を下回る10keV、好ましくは5keV、さらに好ましくは3keV、さらにより好ましくは2keVとするとよい。
[0035]
 こうした高いエネルギーを有する電子が直接、プリカーサイオンに当たった場合、該イオンの内部エネルギーが高くなり過ぎ、直ぐに過剰なエネルギーによる開裂を生じて高価数のプリカーサイオンが得られないおそれがある。また、イオン捕捉の仮想ポテンシャルが低いと、高エネルギーの電子の衝突を受けたイオンがイオントラップから吐き出されてしまうおそれもある。
[0036]
 これに対し、電場閉込め型のイオントラップでは電場で閉じ込めたイオンをクーリングするためにイオントラップの内部にはクーリングガス(一般に不活性ガス)が導入されるため、一時的に内部エネルギーが過剰になったプリカーサイオンはクーリングガスに接触してエネルギーが減少する。そのため、上述したような過剰なエネルギーによる開裂は生じにくく、電子の照射が価数の増加に繋がり易い。また上述したように、電場閉込め型のイオントラップは磁場閉込め型のイオントラップに比べて、イオンに対する仮想ポテンシャルがかなり高いため、高エネルギーの電子の衝突を受けたイオンもイオントラップ内に捕捉することができる。それにより、プリカーサイオンの減少を回避することができる。
[0037]
 上述したようにイオンが過剰な内部エネルギーを持つことを防止するために、本発明に係るイオン分析装置及びイオン解離方法では、前記イオントラップの内部のガス圧が1×10 -3[Pa]程度以上になるように該イオントラップの内部に所定のガスを導入するとよい。これにより、電子との接触により過剰な内部エネルギーを持ったイオンを迅速にクーリングすることができる。
[0038]
 一般的な四重極型のイオントラップでは、イオンを捕捉する際に、該イオントラップを構成する電極に所定周波数の正弦波高電圧を印加する。その場合、イオン捕捉用の高周波電場の強さが時間経過に伴い時々刻々と変化するため、閉じ込められるイオンの位置エネルギーや二次電子の生成条件が時々刻々と変化する。その結果、二次電子の生成効率やイオンの価数増加反応効率に最適な電位状態が一定にならず、同じエネルギーの電子を照射してもイオンの価数増加や内部エネルギーの増加が安定しないことがある。
[0039]
 そこで、本発明に係るイオン分析装置及びイオン解離方法では、前記イオントラップの内部にイオンを捕捉する電場を形成するために、該イオントラップを構成する電極に矩形波状の高周波電圧を印加する電圧発生部をさらに備える、即ち、イオントラップとしてデジタル駆動方式のイオントラップを用いるとよい(特許文献2参照)。
[0040]
 この構成では、イオントラップを構成する電極に印加される電圧は二値であるので、閉じ込められるイオンの位置エネルギーが二値的な値となる。また、電極から放出される二次電子の生成条件も二値的に変化する状態となる。そのため、二次電子の生成効率やイオンの価数増加反応効率に最適な電位状態は所定の期間ほぼ一定となり、安定的にプリカーサイオンの価数を増加させたうえで或いは安定的にプリカーサイオンの内部エネルギーを増加させたうえで該プリカーサイオンを解離させることができる。
 或いは、イオンを捕捉するためにイオントラップを構成する電極に印加される電圧を正弦波電圧としたまま、該イオントラップを構成する電極と電子照射部との電位差が矩形波となるような高周波電圧を電子照射部に印加する構成としてもよい。この構成によっても、上述したようにデジタル駆動方式のイオントラップを用いた場合と同様の効果が得られる。
[0041]
 また本発明に係るイオン分析装置では、前記電子照射部による電子照射時又は電子照射後に前記イオントラップの内部に水素ラジカルを導入するための水素ラジカル供給部をさらに備える構成としてもよい。なお、水素ラジカルは、例えば水素ガスに電子が照射されることによっても生成されうる。従って、水素ラジカル供給部には、イオントラップに直接水素ラジカルを供給するものだけでなく、イオントラップに水素ガスを供給し、それを電子照射によりラジカル化するものも含まれる。また、電子照射部として高温フィラメントからの熱電子を放出するものを用いると、イオントラップあるいはその近傍に導入した水素ガスがイオントラップ外に流出して高温のタングステンフィラメントに接触することにより水素ラジカルが生成される。従って、水素ラジカル供給部には、イオントラップやその近傍に水素ガスを供給し、これをフィラメントに接触させて水素ラジカルを生成するものも含まれる。
[0042]
 本発明者の検討によれば、電子照射によって価数が増加したイオンはラジカル種となるため、そのままの状態では解離のために照射された水素ラジカル(HAD法の場合)等が付着し、イオンが非ラジカル種に変化して安定になってしまい解離しにくくなることがある。これに対し、電子照射時又は電子照射後に、イオントラップ内に水素ラジカルを導入しておくと、ラジカル種のイオンが非ラジカル種に変化するため、その後に解離のために照射される水素ラジカル等の作用で解離し易くなる。これにより、上記構成によれば、イオンの解離効率を向上させ、より多くの量のプロダクトイオンを生成することができる。また、ラジカル種のイオンを非ラジカル種に変化させるために水素ラジカルを照射する場合、後述する理由により2000℃以下の水素ラジカルを照射することが好ましい。
[0043]
 また、上記構成のイオン分析装置であって、前記イオントラップの内部で生成されたプロダクトイオンを質量分析する質量分析装置において、
 前記解離促進部は衝突誘起解離法によりイオンを解離させるものであり、前記イオントラップの内部に水素ラジカルを導入したときのプロダクトイオンスペクトルと、該イオントラップの内部に水素ラジカルを導入しないときのプロダクトイオンスペクトルとを取得して、それら複数のプロダクトイオンスペクトルを利用して試料中の成分を解析する構成とするとよい。
[0044]
 イオントラップ内に水素ラジカルを導入したときのプロダクトイオンスペクトルと水素ラジカルを導入しないときのプロダクトイオンスペクトルとでは、生成されるプロダクトイオンの系列が相違する。そのため、上記構成によれば、試料成分、特に翻訳後修飾を受けたペプチドの構造を反映した様々な種類のプロダクトイオンの情報を得ることができ、構造解析を容易に且つ高い精度で進めることができる。
[0045]
 上述第1の態様では、電子照射部によりプリカーサイオンに電子を照射して価数を増加させたあと、続いて解離促進部によりイオンを解離させるが、解離促進部を用いることなくイオンを解離させることもできる。即ち、価数が増加し内部エネルギーが高くなったイオンを、電子の作用によってそのまま解離させることもできる。これは、高エネルギーの電子を照射することにより生じる作用によってイオンを解離させるものであり、電子誘起解離(EID=Electron-Induced Dissociation)法と呼ばれる(例えば特許文献3)。
[0046]
 本発明者は、EID法によるプリカーサイオンの解離は、ガスクロマトグラフ等で用いられている電子イオン化(EI=Electron Ionization)法による試料成分のイオン化と同様に高エネルギーの電子を照射することにより生じさせることから、生成するイオンもEI法により生成されるイオンと類似すると考えた。EID法では、プリカーサイオンの価数を問わず高い効率でイオンを解離させることができる。また、EID法では、試料成分をイオン化するのではなく、イオン源で試料成分から生成された(プリカーサ)イオンを解離させるため、イオン源の種類を問わずEI法により生成されるイオンと類似の系統のイオンを生成することができる。
[0047]
 また、EI法は他のイオン化法(ESI法やMALDI法)に先駆けて実用化されており、多種の化合物由来のイオンを質量分析することにより得られるマススペクトルデータを収録したライブラリが既に存在し、ガスクロマトグラフ質量分析装置等を用いた試料成分の分析等において広く用いられている。このライブラリを用い、EID法で生成したイオンを質量分析して得られるマススペクトルデータを、ガスクロマトグラフ質量分析装置等を用いた分析用に作成された充実したライブラリと照合することによって、例えば、タンパク質やペプチドのように、MALDIイオン源等の特定のイオン源でなければイオン化が困難な生体試料由来の化合物の網羅的な構造解析を行うことができる。
[0048]
 即ち、上記課題を解決するためになされた本発明の第2の態様に係るイオン分析装置は、試料成分由来のイオンをイオントラップの内部で解離させ、それにより生成されたプロダクトイオンを分析するイオン分析装置であって、
 a) 試料成分由来のイオンを高周波電場の作用により捕捉する四重極型のイオントラップと、
 b) 前記イオントラップに捕捉されている解離対象であるイオンに、30eV以上のエネルギーを有する電子を照射する電子照射部と、
 c) 前記電子の照射により解離したイオンを質量分析してマススペクトルデータを取得する質量分析部と、
 d) 複数の既知の化合物について、電子イオン化法により生成したイオンを質量分析することにより得られるマススペクトルデータが収録されたライブラリと、
 e) 前記質量分析部で得られたマススペクトルデータを前記ライブラリに収録された前記既知の化合物のマススペクトルデータと照合するマススペクトルデータ照合部と
 を備えることを特徴としている。
[0049]
 前記ライブラリに収録されるマススペクトルデータは、前記既知の化合物を実際に電子イオン化によりイオン化して質量分析することにより得られるマススペクトルデータであってもよく、あるいはシミュレーション等により求められたマススペクトルデータであってもよい。
[0050]
 第2の態様に係るイオン分析装置においても、上記イオントラップは、1個のリング電極と一対(2個)のエンドキャップ電極とから成る3次元四重極型のイオントラップ、又は四本のロッド電極を含む四重極型のリニアイオントラップのいずれでもよい。ただし、イオンを限られた空間内に捕捉しやすく、またイオンを該空間内に捕捉したままに電子を照射することで電子を照射する時間を調整しやすいという点で、3次元四重極型のイオントラップを用いることが好ましい。
[0051]
 本発明の第1の態様に係るイオン分析装置に関して上述した好ましい態様のうち、イオントラップに導入した一次電子を直接イオンに作用させて該イオンの価数増加や内部エネルギーの増加を促すほか、イオントラップを構成する電極の内面に一次電子を照射し、その一次電子に応じて該電極の内面から放出される二次電子をプリカーサイオンに照射するものや、電子をイオントラップの中心部に集束させるように照射するもの、デジタル駆動方式のイオントラップを用いるもの等は、第2の態様に係るイオン分析装置においても同様に有効である。

発明の効果

[0052]
 本発明の第1の態様に係るイオン分析装置及びイオン解離方法、並びに第2の態様に係るイオン分析装置によれば、イオントラップでイオンを解離させる際に、目的とする試料成分由来のプリカーサイオンの価数が低い場合でもあっても、その価数を増加させることで又はイオンの内部エネルギーを増加させることで、高い解離効率を達成することができる。それにより、例えば解離により生成されたプロダクトイオンを質量分析する質量分析装置においては、試料成分の構造解析に有用なプロダクトイオンの情報を十分に収集することができ、正確な構造解析を行うことができる。
[0053]
 また、第1の態様に係るイオン分析装置やイオン解離方法において、特に解離法としてHAD法、ECD法、ETD法などを利用した場合には、タンパク質やペプチドといった生体高分子化合物の構造を推定するのに重要なプロダクトイオン情報を高い感度で得ることができる。それによって、そうした生体高分子化合物の網羅的な構造解析を良好に行うことができる。
[0054]
 さらに、第2の態様に係るイオン分析装置では、タンパク質やペプチドといった、MALDIイオン源等の特定のイオン源でなければイオン化が困難な生体高分子化合物についても、多種の既知の化合物のマススペクトルデータを収録したライブラリと照合することにより網羅的な構造解析を行うことができる。

図面の簡単な説明

[0055]
[図1] 本発明の第1実施例によるイオントラップ飛行時間型質量分析装置の概略構成図。
[図2] 電子密度増加のメカニズムの模式説明図。
[図3] イオントラップ内に捕捉したユビキチン由来の1価イオンをプリカーサイオンとして分離した後にイオン解離を行うことなく質量分析することで得られたマススペクトル(a)、及び、ユビキチン由来の1価イオンをプリカーサイオンとして分離し電子照射をした後に質量分析することで得られたマススペクトル(b)。
[図4] 1価のフラーレン(C60)及びP物質由来のイオンに対し電子を照射した場合の電子のエネルギーとイオンの価数増加効率との関係を実験的に調べた結果を示す図。
[図5] 1価のペプチドイオンに対し電子照射を行わないでHAD法によりイオンを解離したあと質量分析を行って得られたMS/MSスペクトル(a)、同イオンに対し電子照射をしつつHAD法によりイオンを解離したあと質量分析を行って得られたMS/MSスペクトル(b)。
[図6] 1価のペプチド由来のc7イオンの信号強度を電子照射の有無で比較した結果を示す図。
[図7] 本発明の第2実施例によるイオントラップ飛行時間型質量分析装置の概略構成図。
[図8] 1価のリン酸ペプチドイオンに対し電子照射を行ったあと質量分析を行うことで得られたMS/MSスペクトル(a)、及び1価のクエルセチンイオンに対し電子照射を行ったあと質量分析を行うことで得られたMS/MSスペクトル(b)。
[図9] 電子を照射することにより価数を増加させたプリカーサイオンのマススペクトル及びその同位体分布の拡大図。
[図10] 電子照射により価数を増加させたプリカーサイオンの同位体分布(a)、及び電子照射によりプリカーサイオンの価数を増加させたあとにイオントラップ内に高温の水素ラジカルを導入した場合におけるプリカーサイオンの同位体分布(b)。
[図11] 電子照射によりプリカーサイオンの価数が増加したあとにイオントラップ内に低温の水素ラジカルを導入した場合におけるマススペクトル及びプリカーサイオンの同位体分布の拡大図。
[図12] ユビキチン由来の1価のイオンをプリカーサイオンとしてHAD法による解離を行うことで得られたMS/MSスペクトル。
[図13] ESI法を用いてイオン化することで生成されたユビキチン由来の13価のイオンをプリカーサイオンとしてHAD法による解離を行うことで得られたMS/MSスペクトル。
[図14] イオンのエネルギー増加のために照射するレーザ強度を変えたときに1価のペプチドイオンをプリカーサイオンとしてHAD法による解離を行うことで得られたMS/MSスペクトル。

発明を実施するための形態

[0056]
  [第1実施例]
 本発明の第1実施例であるイオントラップ飛行時間型質量分析装置について、添付図面を参照して構成と動作を説明する。
 図1は本実施例のイオントラップ飛行時間型質量分析装置の概略構成図である。
[0057]
 本実施例の質量分析装置は、真空雰囲気に維持される図示しない真空チャンバの内部に、目的試料中の成分をイオン化するイオン源1と、イオン源1で生成されたイオンを高周波電場の作用により捕捉するイオントラップ2と、イオントラップ2から射出されたイオンを質量電荷比m/zに応じて分離する飛行時間型質量分離部3と、分離されたイオンを検出するイオン検出器4と、を備える。本実施例の質量分析装置はさらに、イオントラップ2内に捕捉されているイオンをHAD法により解離させるべく該イオントラップ2内に水素ラジカルを導入するための水素ラジカル照射部5と、イオントラップ2内に所定のガスを供給するガス供給部6と、イオントラップ2内に電子を照射する電子照射部7と、トラップ電圧発生部8と、制御部9と、データ処理部10と、を備える。
[0058]
 図示しないがイオン源1はMALDIイオン源であり、試料にレーザ光を照射して該試料中の成分をイオン化する。イオントラップ2は、円環状のリング電極21と、該リング電極21を挟んで対向配置された一対のエンドキャップ電極22、24と、を含む3次元四重極型のイオントラップである。制御部9による指示に応じてトラップ電圧発生部8は、上記電極21、22、24それぞれに対し、所定のタイミングで高周波電圧、直流電圧のいずれか一方又はそれらを合成した電圧を印加する。飛行時間型質量分離部3はこの例ではリニア型であるが、リフレクトロン型やマルチターン型等でもよく、また飛行時間型の質量分離器ではなく、例えばイオントラップ2自体のイオン分離機能を利用して質量分離を行うものやオービトラップなどでもよい。
[0059]
 水素ラジカル照射部5は、水素ガス供給源51と、その流量を調整可能であるバルブ52と、水素ガスを噴出するノズル53と、ノズル53の先端とスキマー54の入口の間に配置されたフィラメント(タングステンフィラメント)55と、ノズル53からの噴出流の中心軸上に開口を有し、拡散する水素分子等のガスを分離して細径の水素ラジカル流を取り出すスキマー54とを含む。ガス供給部6は、バッファガスやクーリングガスなどとして使用されるヘリウム、アルゴンなどを貯留したガス供給源61と、その流量を調整可能であるバルブ62と、ガス導入管63とを含む。電子照射部7は電子銃などを含み、エネルギーが調整された電子流をイオントラップ2内に導入可能である。また、トラップ電圧発生部8は高周波電圧として正弦波電圧でなく矩形波電圧を用いている。その理由はあとで詳しく説明する。
[0060]
 本実施例の質量分析装置における基本的な分析動作を簡単に説明する。
 イオン源1においてペプチド混合物などの試料から生成された各種イオン(主として1価のイオン)はパケット状にイオン源1から射出され、入口側エンドキャップ電極22に形成されているイオン導入孔23を経てイオントラップ2の内部に導入される。イオントラップ2内に導入されたペプチド由来のイオンは、トラップ電圧発生部8からリング電極21に印加される高周波高電圧によってイオントラップ2内に形成される高周波電場に捕捉される。そのあと、トラップ電圧発生部8からリング電極21等に所定の電圧が印加され、それによって目的とする特定の質量電荷比を有するイオン以外の質量電荷比範囲に含まれるイオンが励振され、イオントラップ2から排除される。これにより、イオントラップ2内に、特定の質量電荷比を有するプリカーサイオンが選択的に捕捉される。
[0061]
 それに続き、ガス供給部6においてバルブ62が開放され、イオントラップ2内にクーリングガスが導入されることでプリカーサイオンはクーリングされ、イオントラップ2の中心付近に収束される。その状態で、制御部9は水素ラジカル照射部5のバルブ52を開放し、水素ガスをノズル53から噴出させる。その噴出流の前方に位置するフィラメント55に図示しない電源から電流を供給して高温に加熱し、そのフィラメント55に水素ガスを吹き付けることにより水素ラジカルを生成する。フィラメント55でラジカル化しなかった水素ガス等のガスは、スキマー54によって除去され、スキマー54の開口を通過した水素ラジカルは細径のビーム状となって、リング電極21に穿設されているラジカル粒子導入口26を通過する。そして、この水素ラジカルはイオントラップ2内に導入され、イオントラップ2内に捕捉されているプリカーサイオンに照射される。
[0062]
 イオンに照射される水素ラジカルの流量が所定流量以上になるように、バルブ52の開度などは予め調整されている。また、水素ラジカルの照射時間も予め適宜に設定されている。それによって、プリカーサイオンは不対電子誘導型の解離を生じ、ペプチド由来のプロダクトイオンが生成される。生成された各種プロダクトイオンはイオントラップ2内に捕捉され、クーリングガスと接触することでクーリングされる。そのあと、所定のタイミングでトラップ電圧発生部8からエンドキャップ電極22、24に所定の直流高電圧が印加され、これにより、イオントラップ2内に捕捉されていたイオンは加速エネルギーを受け、イオン射出孔25を通して一斉に射出される。
[0063]
 こうして一定の加速エネルギーを持ったイオンが飛行時間型質量分離部3の飛行空間に導入され、飛行空間を飛行する間に質量電荷比に応じて分離される。イオン検出器4は分離されたイオンを順次検出し、この検出信号を受けたデータ処理部10は、例えばイオントラップ2からのイオンの射出時点を時刻ゼロとする飛行時間スペクトルを作成する。そして、予め求めておいた質量校正情報を用いて飛行時間を質量電荷比に換算することにより、プロダクトイオンによるマススペクトルを作成する。データ処理部10ではこのマススペクトルから得られる情報(質量情報)等に基づく所定のデータ処理を行うことで、試料中の成分(ペプチド)を同定する。
[0064]
 本実施例の質量分析装置では、イオントラップ2内に捕捉したプリカーサイオンに対し水素ラジカルを直接的に照射することにより、該プリカーサイオンを解離させてプロダクトイオンを生成する。但し、水素ラジカルの照射によってイオンは解離するものの、該イオンの価数が小さいと解離効率は低い。また、MALDI法により生成されるイオンは殆どが1価のイオンである。そこで、本実施例の質量分析装置では、HAD法による解離の効率を上げてプロダクトイオンの検出感度を高めるために、イオン解離の直前に電子照射部7からイオントラップ2内に高エネルギー(30eV以上)の電子を照射し、この電子とイオンとの相互作用によりイオンの価数を増加させるようにしている。
[0065]
 ここで、イオンに電子を照射することによる価数増加の効果について、実験結果を用いて説明する。
 図3(a)はイオントラップ2内に捕捉したユビキチン由来の1価のイオンをプリカーサイオンとして分離した後にイオン解離を行うことなく質量分析することで得られたマススペクトル、図3(b)は同じユビキチン由来の1価イオンをプリカーサイオンとして分離し500msの間電子を照射した後に質量分析することで得られたマススペクトルである。図3(a)では1価のイオンしか観測できていないのに対し、図3(b)では2価~6価のイオンが観測されている。これにより、電子照射によってイオンの価数が確実に増加することが確認できる。
[0066]
 非特許文献6によれば、ユビキチンでは6価~13価のイオンについてECD法による十分な解離が行われると報告されている。ECD法とHAD法とはイオン解離のメカニズムは殆ど同じであるので、HAD法においても同様に6価~13価のイオンについて十分な解離が行われるものと推測できる。上述したように電子の照射によってイオンの価数は1価から2価~6価の範囲に増加することから、電子を照射したあとのプリカーサイオンにラジカル水素を照射することで、或いは、電子を照射しながらラジカル水素を照射することで、HAD法による解離を十分に良好に行うことができる。
[0067]
 図4は、1価のフラーレン(C60)及びP物質(Substance P)由来のイオンに対し電子を照射した場合の、電子エネルギーとイオンの価数増加効率([M+H] 2+/[M+H] +)との関係を実験的に調べた結果を示す図である。電子照射の時間は500msである。電子照射によるフラーレンの価数増加効率(Electron Ionization)の衝突断面積は非特許文献7に記載されており、その効率は50eV程度の電子エネルギーで飽和することが知られている。それに対し、図4の結果では、それよりも1桁高い500eVの電子エネルギーで価数増加効率が飽和している。この電子エネルギーの相違から、ここで生じているイオンの価数増加反応は高エネルギーの直接的な電子照射によるものではなく、イオントラップ2を構成するリング電極21等の電極内表面で生成された二次電子によるものと推測できる。
[0068]
 図2に示すように、高エネルギーを有する一次電子がリング電極21等の導電体に衝突すると、該導電体から一次電子に比べて多量の二次電子が放出される。こうした二次電子の生成効率は一次電子のエネルギーが増加するに伴い上昇し、その効率は一次電子のエネルギーが数百eV程度になると飽和する。このことから、図4で示した価数増加効率の電子エネルギー依存性は、照射した電子エネルギーに対する二次電子の生成効率に対応していると考えられる。電場閉込め型であるイオントラップ2では電子を効率良く閉じ込めることが難しいが、上述したように高エネルギーの一次電子を電極21等に当てて二次電子を放出させることで、イオントラップ2の内部空間における電子密度を高め、実用的な反応時間で以てプリカーサイオンの価数増加を達成することができる。もちろん、リング電極21等から放出される二次電子を利用するのではなく、イオンに30eV程度以上の高エネルギーの電子を直接的に照射する場合でも、その電子密度を或る程度高くすれば、或いはイオンが高い確率で存在しているイオントラップ2の中心部に電子流を集束させれば、実用的な反応時間で以てプリカーサイオンの価数増加を達成することができる。
[0069]
 なお、上記のように電子照射部7から射出した電子をイオントラップ2のリング電極21の内面等に当て、それにより生成される二次電子をプリカーサイオンの価数増加に利用する場合には、電子照射部7から照射する電子(一次電子)のエネルギーを例えば30eV~2keV程度の範囲にしておくとよい。また、二次電子の放出効果を高めるために、電極自体を仕事関数の低い導電性部材から形成したり電極の表面に仕事関数の低い導電性被膜層を形成したりしてもよい。
[0070]
 また、電子照射によってプリカーサイオンの内部エネルギーが過剰に増大したときにそのエネルギーを減じて開裂を回避するには、電子照射時におけるイオントラップ2内部のガス圧が1×10 -3Pa以上になるようにクーリングガスの供給を制御するとよい。
[0071]
 また、上記のような電子照射によるイオンの価数増加効果は該イオンが持つ位置エネルギーに依存するため、その位置エネルギーが変動すると同じエネルギーの電子を照射し続けても価数増加効果自体が変動し、高い解離効率を安定的に得ることが難しい。これに対し、本実施例の質量分析装置では、イオン捕捉用の高周波電圧として矩形波電圧を利用している。これにより、捕捉されているイオンが持つ位置エネルギーは二値的な値を交互にとるようになり、高周波電圧として正弦波電圧を利用した場合のように時々刻々と連続的に位置エネルギーが変動することを回避することができる。その結果、同じエネルギーの電子を照射し続けても、十分に高い価数増加効果を安定的に達成し、高い解離効率を実現することができる。
[0072]
 上記説明では、電子照射を受けたプリカーサイオンの価数が1価から6価程度まで増加することを前提としていたが、プリカーサイオンの価数が高くならない(又はその増加の程度が小さい)場合でもプリカーサイオンの内部エネルギーが増加することで一部の結合の切断の効率が上昇し、電子を照射しない場合では観測できないプロダクトイオンが観測できるようになることがある。その場合でも、イオンに供給するエネルギーを適切に制御しないと、例えば翻訳後修飾が脱離してしまう等、構造解析に有用な情報が得られなくなるおそれがある。本実施例の質量分析装置では、イオンに照射される電子のエネルギーは電子照射部7において電子を加速する加速電圧によって正確な制御が可能である。また、イオンを捕捉するためにリング電極21には矩形波である高周波電圧が印加されるので、上述したように、捕捉されるイオンの位置エネルギーは二値的な値をとり、一定のエネルギーの電子を照射することで電子との相互作用によるイオンの内部エネルギーの増加も安定する。それにより、イオンの内部エネルギーが過剰に高くなることを防止することができる。
[0073]
 イオンに電子を照射することによるプロダクトイオンの強度増加の効果について、実験結果を用いて説明する。
 図5の(a)はイオントラップ2内の1価ペプチドイオン(Acetyl-DRVYIHPFHLLVYS)に対し電子照射を行わないでHAD法によりイオンを解離したあと質量分析を行って得られたMS/MSスペクトル、(b)は同イオンに対し電子照射(照射電子エネルギー:500eV)を行いつつHAD法によりイオンを解離したあと質量分析を行って得られたMS/MSスペクトルである。
[0074]
 図5(a)に示すように、電子照射を行わなくてもc10、c11、c12などのプロダクトイオンは十分な強度で観測されている。一方、図5(b)に示すように、電子照射を行うことで、電子非照射時には観測できなかったc7以下のプロダクトイオンも観測できていることが分かる。また、電子照射時にはプリカーサイオンの価数が増加したMH 2+イオンも観測されている。このとき、イオントラップ2のリング電極21に印加した高周波電圧の振幅は1kVであることから、イオントラップ2の中心部におけるイオンの位置エネルギーはその1/2の500Vであると考えられ、一次電子のエネルギーも500Vということになる。一方、上記ペプチドイオンにおける電子照射による価数増加反応の最適な電子エネルギーは100eV程度であることが知られている(非特許文献4参照)。このことから、本反応にも外部から導入された一次電子だけでなく、イオントラップ2を構成するリング電極21等の表面で生成された低エネルギーの二次電子も関与していることが推測される。ただし、二次電子を利用せずにイオンに直接的に電子を照射しても、実用的には十分な強度のプロダクトイオンが観測されるものと推測できる。
[0075]
 図6は上記c7イオンの信号強度を、電子照射の有無で比較した実験結果である。図6から分かるように、電子照射によってHAD由来のc7イオンの信号強度は約2.5倍に増加することが分かる。このことから、電子とプリカーサイオンとの相互作用により、イオンの内部エネルギーが増加したことでHADの反応効率が増加したものと推測される。
[0076]
 なお、非特許文献8には、インスリンB鎖の4価の正イオンに電子を照射した後、水素ラジカルを照射したが、ほとんど付着しなかったとの実験結果が報告されている。この実験結果は、上述した本実施例の実験結果と異なる。非特許文献8には水素ラジカルの供給量や電子照射等の詳細な実験条件が記載されていないが、この文献に記載の実験において水素ラジカルの付着が確認されなかったのは、水素ラジカルの生成量が十分でなかったことが原因ではないかと思われる。特許文献1において本発明者が記載しているように、水素ラジカルは反応性に富むため、例えば水素ラジカルをイオントラップ内にまで案内する配管の内壁やチャンバ壁等において容易に再結合して水素分子になってしまう。解離反応に寄与するラジカル量を十分に確保するには、試料成分由来のイオンが存在する空間に対して、例えば4×10 10 [atoms/s]以上の流量や3×10 12[atoms/m 3]以上の密度で水素ラジカルを導入する必要があると考えられるが、非特許文献8では水素ラジカルの量がこれに満たなかったために水素ラジカルの付着が確認されなかったものと考えられる。
[0077]
  [第2実施例]
 次に、本発明の第2実施例であるイオントラップ飛行時間型質量分析装置について、図7、図8を参照して説明する。
 図7は第2実施例のイオントラップ飛行時間型質量分析装置の概略構成図であり、図1に示した第1実施例のイオントラップ飛行時間型質量分析装置と同じ構成要素には同じ符号を付している。図1と図7を比べれば分かるように、この第2実施例のイオントラップ飛行時間型質量分析装置はHAD法によるイオン解離を行うための水素ラジカル照射部5を備えず、電子照射部7からの電子照射により価数を増加させるとともにイオン解離も実施している。
[0078]
 即ち、この第2実施例のイオントラップ飛行時間型質量分析装置では、イオントラップ2内に、特定の質量電荷比を有するプリカーサイオンを選択的に捕捉したあと、ガス供給部6からイオントラップ2内にクーリングガスを導入し、プリカーサイオンをクーリングする。そして、電子照射部7からイオントラップ2内に所定時間、高エネルギーの電子を照射することにより、プリカーサイオンの価数を増加させつつ、その価数が増加したイオンを電子の作用によって解離させる。このように、高エネルギーの電子の照射によりプリカーサイオンを解離させる手法は電子誘起解離(EID)法と呼ばれる。
[0079]
 また、第2実施例のイオントラップ飛行時間型質量分析装置のデータ処理部10は、スペクトルライブラリ12が保存された記憶部11と、機能ブロックであるスペクトルデータ照合部13を備えており、入力部14と表示部15とが接続されている。スペクトルライブラリ12には、既知の複数の化合物のそれぞれについて、電子イオン化法により生成されたイオンを質量分析することにより得られるマススペクトルデータが収録されている。
[0080]
 図8(a)は、イオントラップ2内の1価のリン酸ペプチドイオン(スレオニン1箇所がリン酸化:pT)に対し250msの期間、電子照射(照射電子エネルギー:500eV)を行ったあと質量分析を行うことで得られたMS/MSスペクトルである。図8(a)を見れば分かるように、電子イオン化法と同様のメカニズムでプリカーサイオンの価数が増加した2価イオン(MH +2)が観測されるとともに、多種類のプロダクトイオンが十分な強度で観測されている。プロダクトイオンがa/c/x/z系列であることから、HAD法、ETD法、ECD法等と同様に不対電子誘導型の解離が生じていると推定される。また、大半のプロダクトイオンはリン酸が結合した状態であり、解離に伴う修飾物の脱離も殆ど生じていない。ただし、上述したように、ECD法で使用される照射電子とはエネルギーが大きく相違しており、ECD法による解離とは異なるメカニズムであることは明らかであるといえる。
[0081]
 ここでは、プロダクトイオンの収集効率は30%近くと非常に高く、従来の磁場閉込め型FT-ICRイオントラップを用いた場合に報告されている(非特許文献3、4参照)プロダクトイオンの収集効率よりも1桁程度高い。この差は、磁場閉込め型FT-ICRイオントラップと電場閉込めを利用したデジタル駆動方式の3次元四重極型イオントラップとの仮想ポテンシャルの差によると考えられる。
 このように、プリカーサイオンの価数を増加させたあとのイオン解離は、電子照射によっても行うことができる。この場合、電子照射部7のみで価数増加とイオン解離とを実現することができるので、構成をかなり簡素化することができる。
[0082]
 また、図8(b)は、MALDI法によりイオン化しイオントラップ2内に捕捉した、1価の低分子化合物であるクエルセチン(Quercetin)に対して電子照射を行ったあと質量分析を行うことで得られたMS/MSスペクトルである。図8(b)に示すMS/MSスペクトルから、ペプチドイオンのような高分子化合物だけでなく、低分子化合物に対しても多数の開裂イオンピークが検出できており、本実施例の方法が有効であることが分かる。
[0083]
 第2実施例のイオントラップ飛行時間型質量分析装置では、図8に示すようなマススペクトルが得られると、スペクトルデータ照合部13は、記憶部11内のライブラリ12に収録された既知の化合物のマススペクトルデータとの一致度(マスピークの位置の質量電荷比やマスピークの強度比等の一致度)を求める。そして、その一致度が高い順に所定数の化合物を抽出し、それらの化合物名とマススペクトルを表示部15に表示する。なお、スペクトルデータ照合部13は、イオン検出器4により得られたマススペクトルデータと、ライブラリ12に収録された既知の化合物のマススペクトルデータとを照合する際に、所定範囲の質量誤差を許容してマスピークの位置(質量電荷比)の一致/不一致を判定する。所定範囲の質量誤差は、予め装置に記憶されている質量誤差の範囲としてもよく、都度、使用者が入力部14を通じて質量誤差の範囲を入力することにより設定するようにしてもよい。
[0084]
 EID法によるプリカーサイオンの解離は、ガスクロマトグラフ質量分析装置等において広く用いられている電子イオン化(EI=Electron Ionization)法による試料成分のイオン化と類似のメカニズムを用いたものである。従って、EID法を用いてプリカーサイオンを解離させるとEI法で生成されるイオンと類似の系統のイオンを生成することができる。また、EID法では、プリカーサイオンの価数を問わず高い効率でイオンを解離させることができる。さらに、試料成分を直接イオン化するのではなく、イオン源で試料成分から生成された(プリカーサ)イオンを開裂させるものであるため、イオン源の種類を問わず、EI法により生成されるイオンと同様のイオンが高い効率で生成される。
[0085]
 EI法は古くから実用化されており、そのライブラリには多数の既知の化合物のマススペクトルデータが収録されている。第2実施例のイオントラップ飛行時間型質量分析装置では、イオン源1により生成でイオン化された試料成分を解離させて取得したマススペクトルデータを、スペクトルライブラリ12に収録されたマススペクトルデータと照合する。従って、タンパク質やペプチドのように、MALDIイオン源等の特定のイオン源でなければイオン化が困難な生体試料由来の化合物についても網羅的な構造解析を行うことができる。
[0086]
 本発明者は、図8(b)に示したクエルセチンのMS/MSスペクトルを、電子イオン化(EI)法を用いた解析用に作成された市販のスペクトルライブラリ(NIST 14)に収録されたマススペクトルと照合するスペクトルマッチングを行った。このライブラリには、クエルセチンと精密質量(302.042653Da)が全く同じであり、ヒドロキシル基の結合位置だけが異なる構造異性体のフラボノイドのマススペクトルも収録されているが、図8(b)のMS/MSスペクトルのスペクトルマッチングでは、正しい化合物であるクエルセチンが最大スコアとなった。つまり、本実施例のようにEID法を用いてプリカーサイオンを解離させることにより得られるMS/MSスペクトルを、EI法用に作成されたスペクトルライブラリに収録されたマススペクトルと照合することにより、化合物を正確に同定できることが分かった。
[0087]
 上記実施例はいずれも一例であって、本発明の趣旨に沿って適宜に変更することができる。
 第1実施例ではHAD法を用いる例を説明したが、例えば、HAD法とイオン解離のメカニズムがほぼ同じであるECD法、ETD法でも上記と同様の効果が得られることは明らかである。また、CID法、IRMPD法、UVPD法などの解離法でも一般に、プリカーサイオンの価数が高いほうが解離効率が高い。したがって、こうしたイオン解離法を用いてプリカーサイオンを解離させるイオントラップを搭載した質量分析装置にも本発明を適用できることは当然である。
[0088]
 また、上記の各実施例の質量分析装置においては、クーリングガスとして不活性ガスを使用するのが一般的であるが、第1実施例では、クーリングガスとして水素ガスを利用するか或いは水素ガスを混入させることで付加的な効果を持たせることもできる。
[0089]
 電子照射によって価数が増加したプリカーサイオンはラジカル種[M+nH] (n+1)+*であるため不安定である。本発明者の検討によれば、こうした状態にあるプリカーサイオンが捕捉されているイオントラップ内に水素ラジカルを導入すると、水素ラジカルがプリカーサイオンに付着するという現象が起こることが判明した。その結果、ラジカル種であるプリカーサイオンは化学的に安定な非ラジカル種のイオン[M+nH] (n+1)+になる。HAD法、ETD法、ECD法などによるイオン解離の場合、電子や水素ラジカルがラジカル種であるプリカーサイオンに付着すると、該プリカーサイオンは逆にラジカル種でなくなり解離しにくくなるおそれがある。
 それに対し、上述したように価数増加によりラジカル種になったプリカーサイオンを水素ラジカルの作用で一旦安定化させると、イオン解離のための電子や水素ラジカルの作用でラジカル種になり解離が起こり易くなる。それによって、プロダクトイオンの生成効率が向上する。
[0090]
 図9は、第1実施例のイオントラップ飛行時間型質量分析装置において、イオントラップ2に保持したペプチドイオンに高エネルギーの電子を照射して得られた結果であり、価数が増加したラジカルイオン[M+H] 2+*が生成されていることが分かる。
[0091]
 図10(b)は、電子イオン化して得たラジカル価数増加イオン[M+H] 2+*に対して、特許文献1に記載の指向性を持つ高温の水素ラジカル(2300K)を照射して得られた結果である。図10(a)に示す、電子照射のみにより得られた結果との比較から分かるとおり、通常のHAD測定と同様に、水素ラジカルの付着と引き抜きによって複雑にイオンが分布していることが分かる。図10(b)では非ラジカルイオンとラジカルイオンが混在しており、これをCIDなどで開裂するとラジカル誘起解離と熱的な解離の複雑な開裂ピークが生じるため解析が困難である。
[0092]
 通常、水素ラジカルを非ラジカルイオンに付着もしくはイオンから引き抜くためには、上記のような高温の水素ラジカルを用いる必要がある。しかし、本発明者は、ラジカルイオンに対しては低温の水素ラジカルであっても十分に付着することを実験的に見出した。
[0093]
 図11は、第1実施例のイオントラップ飛行時間型質量分析装置において、イオントラップ2に保持したペプチドイオンに電子を照射することにより得られた価数増加ラジカルイオン[M+H] 2+*に、室温程度の低温の水素ラジカルを照射した結果であり、明確な+1Daの非ラジカルの価数増加イオンが得られていることが分かる。このように、低温の水素ラジカルを照射することで、非ラジカルの価数増加イオンを選択的に生成することができる。
[0094]
 この測定では、特許文献1に記載のような熱解離源で生成される、指向性を持つ高温の水素ラジカルを照射する代わりに、図1に示すように、タングステンフィラメント55をイオントラップ2の近傍に設置し、当該フィラメント55に電流を印加して加熱することによりフィラメント55の表面近傍で生成した指向性のない水素ラジカルを照射した。このような指向性のない水素ラジカルはイオントラップ2の中心に輸送されるまでにイオントラップ2の壁面などに接触して冷却され、室温程度に低下する。水素ラジカルは、それ自身が供給される流路の壁面等との接触などによっても冷却されうる。水素ラジカルの温度は、特許文献1に記載のものよりも低い温度(例えば2000℃以下)であればよく、これにより従来よりも解析が容易なスペクトルを得ることができる。
[0095]
 また、発明者らが別途行った検証では、水蒸気や水素ガスを高周波放電することにより生成される水素ラジカルの温度は、熱解離源により生成される水素ラジカル温度よりも低く、高周波放電により生成したラジカルを直接照射することによっても上記同様の効果が得られることが分かった。一般に、高周波放電の周波数が高くなるほどラジカル温度は低下するため、RF周波数以上の周波数の高周波放電により放電させることにより水素ラジカルを生成することが好ましく、マイクロ波帯域以上の周波数の高周波放電により水素ラジカルを生成することがより好ましい。また、容量結合型の高周波放電よりも誘導結合型の高周波放電の方が、生成されるラジカル温度が低いことから、誘導結合型の高周波放電を用いると良い。
[0096]
 また、イオントラップ2に保持したイオンに電子を照射することによってプリカーサイオンの価数を増加させたあとにCID法によるイオン解離を行う構成としたとき、次のような解析を行うこともできる。
[0097]
 クーリングガスとして通常の、つまりはH 2ガスを含まない不活性ガスを用いた場合、図9に示したように、電子の照射により価数が増加したプリカーサイオンはラジカル種であり、これをCID法により解離させると、主としてa/x、c/z系列のプロダクトイオンが生成される。一方、クーリングガスとしてH 2ガスを用い(又はH 2ガスを含む不活性ガスを用い)、これを上述のようにフィラメントに接触させる等の方法でラジカル化して生成した低温の水素ラジカルをイオントラップ2内に導入すると、図11に示したように、価数が増加したプリカーサイオンは非ラジカル種となり、これをCID法により解離させると、主としてb/y系列のプロダクトイオンが生成される。即ち、水素ラジカルの照射の有無で、解離により得られるプロダクトイオンの系列が相違する。そこで、水素ラジカルを照射したMS/MSスペクトルと水素ラジカルを照射しないMS/MSスペクトルとの両方を取得し、その二つのMS/MSスペクトルを相補的に利用して(例えばマージして)構造解析を行うとよい。これにより、得られるプロダクトイオンの種類が増えるので、ペプチドの構造解析が容易になる。
[0098]
 なお、上記の各実施例の質量分析装置ではMALDIイオン源を用いていたが、イオン化法の方式を問わないことは当然である。また、イオントラップは3次元四重極型の構成でなく、リニアイオントラップでもよい。
 さらにまた、上記の各実施例は本発明の一例にすぎないから、上記記載の点以外で、本発明の趣旨の範囲で適宜、変形、追加、修正を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。

符号の説明

[0099]
1…イオン源
2…イオントラップ
21…リング電極
22、24…エンドキャップ電極
23…イオン導入孔
25…イオン射出孔
26…ラジカル粒子導入口
3…飛行時間型質量分離部
4…イオン検出器
5…水素ラジカル照射部
51…水素ガス供給源
52…バルブ
53…ノズル
54…スキマー
55…フィラメント
6…ガス供給部
61…ガス供給源
62…バルブ
63…ガス導入管
7…電子照射部
8…トラップ電圧発生部
9…制御部
10…データ処理部

請求の範囲

[請求項1]
 試料成分由来のイオンをイオントラップの内部で解離させ、それにより生成されたプロダクトイオンを分析するイオン分析装置であって、
 a) 試料成分由来のイオンを高周波電場の作用により捕捉する四重極型のイオントラップと、
 b) 前記イオントラップに捕捉されている解離対象であるイオンに、30eV以上のエネルギーを有する電子を照射する電子照射部と、
 c) 前記電子照射部による電子と相互作用を生じたイオンを解離させる解離促進部と、
 を備えることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項2]
 請求項1に記載のイオン分析装置であって、
 前記解離促進部は不対電子誘導型の解離法によりイオンを解離させるものであることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項3]
 請求項1に記載のイオン分析装置であって、
 前記電子照射部による電子照射時又は電子照射後に前記イオントラップに水素ラジカルを導入するための水素ラジカル供給部をさらに備えることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項4]
 請求項3に記載のイオン分析装置であって、
 前記水素ラジカル供給部が、マイクロ波放電により水素ラジカルを生成するものであることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項5]
 請求項3に記載のイオン分析装置であって、
 前記水素ラジカル供給部が、誘導結合型の高周波放電により水素ラジカルを生成するものであることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項6]
 請求項3に記載のイオン分析装置であって、
 前記水素ラジカルを、該水素ラジカルが供給される流路、あるいは前記イオントラップの壁面に衝突させることにより冷却することを特徴とするイオン分析装置。
[請求項7]
 請求項3に記載のイオン分析装置であって、
 前記水素ラジカルの温度が2000℃以下であることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項8]
 請求項1に記載のイオン分析装置であって、
 前記解離促進部は衝突誘起解離法によりイオンを解離させるものであることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項9]
 請求項1に記載のイオン分析装置であって、
 前記イオントラップの内部のガス圧が1×10 -3[Pa]以上になるように該イオントラップの内部に所定のガスを導入するガス供給部をさらに備えることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項10]
 請求項1に記載のイオン分析装置であって、
 前記イオントラップで生成されたプロダクトイオンを質量分析する質量分析装置において、
 前記解離促進部は衝突誘起解離法によりイオンを解離させるものであり、前記イオントラップの内部に水素ラジカルを導入したときのプロダクトイオンスペクトルと、該イオントラップの内部に水素ラジカルを導入しないときのプロダクトイオンスペクトルとを取得し、それらのプロダクトイオンスペクトルを利用して試料中の成分を解析することを特徴とするイオン分析装置。
[請求項11]
 試料成分由来のイオンをイオントラップの内部で解離させ、それにより生成されたプロダクトイオンを分析するイオン分析装置であって、
 a) 試料成分由来のイオンを高周波電場の作用により捕捉する四重極型のイオントラップと、
 b) 前記イオントラップに捕捉されている解離対象であるイオンに、30eV以上のエネルギーを有する電子を照射する電子照射部と、
 c) 前記電子の照射により解離したイオンを質量分析してマススペクトルデータを取得する質量分析部と、
 d) 複数の既知の化合物について、電子イオン化法により生成したイオンを質量分析することにより得られるマススペクトルデータが収録されたライブラリと、
 e) 前記質量分析部で得られたマススペクトルデータを前記ライブラリに収録された前記既知の化合物のマススペクトルデータと照合するマススペクトルデータ照合部と
 を備えることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項12]
 請求項11に記載のイオン分析装置であって、
 前記マススペクトルデータ照合部が、質量分析部で得られたマススペクトルデータを前記ライブラリに収録された前記既知の化合物のマススペクトルデータと照合する際に、予め決められた範囲の質量誤差を許容してマスピークの位置の一致/不一致を判定する
 ことを特徴とするイオン分析装置。
[請求項13]
 請求項1又は11に記載のイオン分析装置であって、
 前記イオントラップの内部にイオンを捕捉する電場を形成するために、該イオントラップを構成する少なくとも一つの電極に矩形波状の高周波電圧を印加する電圧発生部をさらに備えることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項14]
 請求項1又は11に記載のイオン分析装置であって、
 前記イオントラップの内部にイオンを捕捉するための電圧が印加される、該イオントラップを構成する電極と前記電子照射部との電位差が矩形波状となるような高周波電圧を、該電子照射部に印加する電圧発生部をさらに備えることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項15]
 請求項1又は11に記載のイオン分析装置であって、
 前記電子照射部は、前記イオントラップを構成する少なくとも一つの電極の内面に電子を照射し、その電子に応じて該電極の内面から放出される二次電子をイオンに照射するものであることを特徴とするイオン分析装置。
[請求項16]
 イオントラップの内部に捕捉した試料成分由来のイオンを解離させるイオン解離方法であって、
 四重極型のイオントラップの内部に高周波電場の作用により捕捉されている解離対象のイオンに電子を照射するとともに、その電子の照射と同時に又は該電子の照射の直後に、電子と相互作用を生じたイオンを所定の手法で解離させることを特徴とするイオン解離方法。

図面

[ 図 1]

[ 図 2]

[ 図 3]

[ 図 4]

[ 図 5]

[ 図 6]

[ 図 7]

[ 図 8]

[ 図 9]

[ 図 10]

[ 図 11]

[ 図 12]

[ 図 13]

[ 図 14]